惑葉50年史

佐賀惑葉ラグビー倶楽部50年史

 

惑ラグビーの誕生

 戦後、まだ焼け跡の残る昭和23年3月(1948年)、不惑四十歳を越えてなおラグビーへの熱い情熱を持ち続けていた7名の発起人の尽力により、最初の紅白戦が実施されて世界で初めて40歳以上のラグビークラブとして「不惑倶楽部」(以下「不惑」)が発足しました。同年4月関西に「惑惑ラグビークラブ」(以下「惑惑」)、昭和24年(1949年)九州に「迷惑ラグビー倶楽部」(以下「迷惑」)が誕生、以後全国にこの流れが波及して、生涯スポーツとしての「惑ラグビー」隆盛の礎となりました。

 さらに、昭和43年(1968年)、日本遠征中のニュージーランド・オークランドの名門クラブ「ポンソンビー・ラグビー・クラブ(Ponsonby・Rugby・Club)」の団長ら6名が三惑大会(不惑、惑惑、迷惑)に参加し、おおいに感激してカナダ、英国等、各国の仲間に喧伝したことを機に『不惑ラグビー』の潮流は世界的なうねりとなり、昭和54年(1979年)からは“ゴールデン・オールディズ・ワールド・ラグビー・フェステイバル(Golden Oldies World Rugby Festival)”として、国際的なシニアラガーマンの集いが実現しています。

                (不惑倶楽部HPより引用加筆)

 

佐賀惑葉ラグビー倶楽部の創立

 戦前からラグビーを楽しんでいた佐賀のオールドラガーたちは、旧知の迷惑メンバーの誘いに応え、その一員として三惑大会に参加していました。そこには、ラグビー仲間に共通する熱い魂と心温まる友情がありました。

 やがて「地元佐賀にも惑ラグビーを根付かせ、かつての仲間たちと再び楕円のボールで絆を深めたい」との思いから、迷惑メンバーのアドバイスを得て、昭和50年(1975年)8月に「佐賀惑葉ラグビー倶楽部」(以下「惑葉」)が発足しました。創立時の登録メンバーは55人、初代会長には井手六郎さんが就任されました。

 「惑葉」という名称は「四十にして惑わず」の言葉にならい、人生の節目を迎えた仲間たちが、なおラグビーに邁進しようという思いと、鍋島藩士・山本常朝の著書『葉隠』にちなんで名づけられたものです。

 そして、発足と同じ年の9月には、唐津河畔公園ラグビー場の開設を記念して、惑葉として初めての試合が迷惑との間で実現しました。この交流はやがて定期戦として定着し、第6回からは「唐津お城まつり協賛ラグビー大会」として、毎年5月5日に開催されるようになりました。現在では、その流れを引き継ぐ形で、後述する佐世保当惑クラブも参加する「佐賀三惑大会」へと発展し、毎年5月第3日曜日に佐賀市健康センター球技場で開催されています。

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創立期の惑葉メンバー

 昭和51年(1976年)佐賀国体の終了後、井手初代会長の後を継ぐ形で、2代目会長に栗山虎之助さんが推挙されました。栗山会長は昭和バスの関係者でもあったことから、試合後のアフターマッチファンクションでは唐津シーサイドホテルの利用をはじめ、さまざまな便宜を図ってくださいました。中でも、唐津お城まつり20周年記念大会の際には、昭和バスの修理工場を特設会場として開放していただき「中国雑技団(?)」のユニークな演技を楽しみながらの焼肉大パーティが開催され、迷惑のメンバーともども大いに盛り上がりました。今でも「あのときの焼肉パーティは楽しかった」と、迷惑の仲間たちとの思い出話に花が咲きます。

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第22回 (2003年) 九州惑ラグビー福岡大会前夜祭

 当時、惑葉にはまだ部歌がなく、試合後のアフターマッチファンクションや集まりの場では唐津曳山囃子の「エンヤー・エンヤー・唐津っ子・唐津っ子」を代わりに歌って場をつないでいましたが、「四十・五十は洟垂れ小僧」の一節がある迷惑の部歌がうらやましく、栗山会長より「至急、部歌とチームブレザー、エンブレム、ネクタイを作れ」との指示が事務局の濱崎忠雄さんに出されました。部歌の歌詞はメンバーの寺田明治さんが担当し、作曲は池田一徹さんが、高校の同期生である岩瀬豊廣さん親子に依頼して実現。また、エンブレムとネクタイの制作については、藤井忠さん・土師俊資さんを中心に諸石雅人さんがデザインを担当して何度も試作を重ね、ついに完成にこぎつけました。 

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惑葉部歌 はこちらからご覧いただけます ◀

 惑葉部歌『頼もしき』は、平成5年(1993年)に佐賀県で開催された第13回九州惑ラグビー大会(以下「九惑大会」)の前夜祭で初めて披露され、大変好評を博しました。現在では、12月にグローバルアリーナで行われる「三惑納会試合」や、各地での交流試合後のアフターマッチファンクションにおいて、チームエンブレムを付けたブレザーとネクタイを着用し、部歌を高らかに歌い上げています。天国の栗山会長も、きっと微笑ましくその光景を見守ってくださっていることでしょう。

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第13回 (1993年) 九州惑ラグビー佐賀大会 前夜祭の栗山さん(左端)と各クラブ長老

 

チームジャージの変遷
 チームジャージは、これまで3回モデルチェンジをしています。
①創立期ジャージ

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 創立期のジャージは、デザインなどの制作担当者は不明です。イラスト中央の人物が着ている、オレンジに緑の襟のジャージがそのモデルで、これが創立期に着用されていました。

 胸には駐車禁止マーク img_20250425-085638.png  が配され「止まるな!走り続けろ!」という思いが込められています。このメッセージは、明治大学の故・北島忠治監督の名言「前へ!」という、ラガーマンにとってプレーの原点を象徴する言葉にちなんだものです。また、マークの中には倶楽部名「惑葉」の文字が描かれています。

 なお、イラスト中央の人物は、還暦を迎えた2代目会長・栗山さんがモデルです。赤いパンツをはき、早稲田・明治・慶應・関東学院の大学生ラガーたちに祝福されている姿を、吉野豊さんがイメージして描いたものです。

②第2期ジャージ

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 第2期のジャージは、吉野さんによるデザインです。「イングランド襟」にこだわって制作されたとのことで、そのスタイルに対する強い想いが込められています。胸には、勘亭流で書かれた「惑」の文字が象徴的に配され、印象的なデザインとなっています。

 このジャージが制作されたのは昭和63年(1988年)のこと。「佐賀惑葉ラグビー倶楽部の創立」の章にある「創立期の惑葉メンバー」の写真を見ていただければ分かるように、13年が経過した初代ジャージは、かなり傷んで胸の「駐車禁止マーク」は剥げ落ちたり、新人メンバーは黄色のジャージで代用するなど、統一感が失われつつありました。こうした状況を受け、部歌・エンブレム・ネクタイの整備とあわせて第2期ジャージの制作が進められることとなりました。

 デザインを担当した吉野さんと事務局の濱崎さんは、唐津にお住まいの栗山会長を訪ね、3種類のデザイン案を提示しました。その際、栗山会長の「これで行こう。」という一言で、第2期ジャージのデザインが決定。打ち合わせの後、栗山さんから「新しくできた部歌を歌って新ジャージの誕生を祝おう。」と声がかかり、吉野さんご夫妻、濱崎さん、唐津在住の宮崎さんほか地元メンバーが急遽集まり、慰労の席が設けられたそうです。

 ちなみに、「勘亭流」とは歌舞伎や大相撲などで用いられる書体で、「観客や仲間を引き込み、興行の無事を祈る」といった意味が込められていると言われます。栗山さんはこの書体に、「観客を引き込むような激しいタックルや突進」「仲間を集めて楽しいクラブをつくる」「試合や練習での怪我のないように祈る」――そんな想いを感じ取られたのかもしれません。

​​​​③現行ジャージ

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 現行のジャージは、坂田秀雄さんがスポーツメーカーと素材等の検討を重ね、それをもとに諸石さんがデザインしました。これまでの創立期モデル、第2期モデルのデザインを継承しつつ、半袖・襟なしのスタイルとなり、新素材を採用した現代的で軽量なジャージへと進化しました。この素材により、雨の日の試合でもジャージが水を吸って重くなることを防げるようになりました。
 また、体にぴったりとフィットするスリムタイプもあり、若手選手の間では「タックルされにくい」と人気です。もっとも、スリムタイプはビール腹には少々厳しく、着用には覚悟が必要かもしれません。

 

惑ラグビー仲間との交流

 惑葉の創立以降、九州各県でも次第に惑ラグビークラブが誕生し始めました。昭和62年(1987年)には、佐世保当惑クラブの前身である「佐世保連合艦隊クラブ」との交流試合が実現し、以後の交流が深まりました。そして、第13回唐津お城まつり大会からは、正式に「佐世保当惑クラブ」(以下「当惑」)として参加されるようになり「迷惑・当惑・惑葉」の三惑による大会が恒例のものとなっていきました。 

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 平成3年(1991年)には、熊本の「熊惑クラブ」(以下「熊惑」)平成18年(2006年)には宗像市を拠点とする「玄海オールドパイレーツラグビークラブ」(以下「玄海OP」)との交流が始まりました。さらに平成29年(2017年)には、当惑・熊惑・玄海OPの三惑で行われていた「西九州三惑大会」に惑葉も参加し、現在では4月に佐世保、10月に熊惑・玄海OP・惑葉の持ち回りで開催される「西九州四惑大会」へと発展しています。 

 また、平成30年(2018年)には山口県の「山惑ラグビークラブ」との交流が始まり、現在では1年おきにお互いを訪問し合う定期戦として、親睦を深めています。平成25年(2013年)2月には、東京から不惑が佐賀へ遠征し、武雄の白岩競技場で交流試合を行いました。そして、今年の三惑福岡大会では、当時遠征に来ていた不惑のメンバーと、迷惑でも活動する惑葉メンバーがアフターマッチファンクションで偶然再会し、懐かしく思い出話を語り合ったそうです。

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 昭和57年(1982年)からは「九州惑ラグビー大会」(以下「九惑大会」)がスタートしました。この大会は毎年各県の持ち回りで開催され、今年で第44回を迎えます。ふだん交流する機会の少ない沖縄・鹿児島・宮崎・大分のクラブとも親交を深める貴重な機会となっています。

 30年前の九惑大会では、まだ参加クラブの数も少なく、土曜日に試合はなく、日曜日の白パン・紺パンの試合のみという日程でした。そのため往路は豪華なサロンバスを貸し切り、唐津で仕入れた新鮮な刺身を肴に「作戦会議」と称した宴会を開きながら、目的地へと向かっていました。バスの中の「作戦会議」では、皆が上機嫌で気分も最高潮。「明日の試合は楽勝だ!」と自信満々でしたが、翌日も酔いが抜けず、実際の試合では思わぬ苦戦を強いられることもしばしばありました。

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第15回 (1996年) 九州惑ラグビー福岡大会 前夜祭

 前夜祭では、各クラブが趣向を凝らした余興を披露し、大いに盛り上がりました。惑葉からは「中国雑技団」が出演し「中国綱渡り」や「支那の夜」などの演目に加え、開催地の事務局から事前に送ってもらった地元民謡の音源に合わせて〇踊りをアレンジしたパフォーマンスを披露。圧倒的な人気を博し、毎回話題をさらっていました。帰りのバスでは「試合は負けたけど、前夜祭は勝った!」という、妙な自慢をして笑い声が絶えませんでした。

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第13回 (2000年) ねんりんピック大阪大会 近鉄花園ラグビー場

 また、昭和64年(1989年)には「ねんりんピック岩手大会」に初参加し、シニア世代の交流の輪を広げました。さらに平成12年(2000年)には大阪大会に出場し、高校ラガーマン憧れの地・花園ラグビー場で試合を行うという貴重な体験も果たしました。 平成17年(2005年)の福岡大会、平成20年(2008年)の鹿児島大会、平成28年(2016年)の長崎大会にも参加し、全国各地の惑ラグビー仲間たちと親交を深めました。

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ニュージーランド遠征

 平成10年(1998年)には、ラガーマン憧れの地・ニュージーランドへの遠征がついに実現しました。6月22日から29日までの8日間、観光を兼ねながら、現地ラグビークラブとの親善試合を行うという貴重な経験となりました。この遠征に向けては、3年間かけて準備を進め、旅行資金を少しずつ積み立て、家族を含めた総勢40名が参加。道中、機内で目にした雑誌の記事で、偶然にも6月27日にオークランドのイーデンパークでニュージーランド代表(オールブラックス)とイングランド代表のテストマッチが開催されることを知りました。すぐに添乗員に相談し、チケットを手配。全員で現地の熱気に包まれながら、オールブラックスの本場のプレーを観戦することができました。

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クラブハウスの前で

 6月28日には、オークランドの名門クラブ「イーデン・ワンダラーズ・ラグビー・クラブ(Eden Wanderers Rugby Club)」との親善試合を行いました。試合の結果は——皆さんのご想像通り(?)の素晴らしい結果となりましたが、それも旅の思い出の一つです。

 試合後には、隣接する立派なクラブハウスにてアフターマッチファンクションが行われ、ノーサイドの精神のもと、お互いの健闘を称え合いながら和やかな時間を過ごしました。言葉の壁を越え、ラグビーを通じて心が通い合ったひとときは、参加者全員にとって忘れがたい経験となりました。
 佐世保当惑クラブから参加した橋本一裕さんの『ニュージーランド遠征記』から一部抜載します。

 『一つのクラブがクラブハウスとラグビー場を持っているのだから伝統ある町である。オールブラックス のOBもいるとか。クラブハウスの横がラグビー場で灌木に囲まれている。芝ではなく牧草が生え土は粘土質で滑りやすい状態だ。クラブハウスの2階のミーティングルームの壁面には交流チームのペナントやジャージ、写真の数々が所狭しと飾ってあり、古い時代からの写真を見ていると歴史を強く感じた。横板に書いてあるのを見ると「日曜のひとときを、このクラブハウスで」としてある。

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 メンバーがそろったので試合開始、大人と子供まではいかないがパスワークが良くハンドリングがとてもうまい。スクラムはノープッシュ。みんな元気でタックルにとびかかるがなかなか倒れない。20分×3本だが相手チームはやや遠慮気味なプレーになって惑葉にもチャンスをくれる。2本目のゲームの時には2メートル近いビッグ・ビルさんはラインアウトのボールをジャンプをしないで奪い取り、惑葉に渡してやったりの珍プレー続出、レクレーションゲームである。いくらか手加減してくれたのでトライも何本かできたが完敗の内容だったかも。3本目はお互い混成チームで楽しいゲームができた。

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​​​2m近いビッグ・ビルさん、足のサイズは36cm

 試合後はクラブハウスで家族ぐるみのパーティに入る。お互いにペナントの交換、メッセージの交換が済み余興が始まる。マオリ族の戦いの踊り・ウォークライ、惑葉の唐津山笠囃子などドリンキング・アンド・イーティングで盛り上がり、突然、パンツ姿でビッグ・ビルさんと上田君との間で裸相撲が始まる、押しつぶされたり、技あり等爆笑の連続であった。最後に「蛍の光」をみんなで合唱、手をつなぎあい親善の役目を果たした我々は心に涙してクラブハウスをあとにした。』 

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 8日間のニュージーランド遠征は、試合だけでなく、さまざまなラグビー文化に触れる機会にも恵まれました。車窓から見えた小学校には、なんと芝のラグビー場が10面もあり、その光景に思わず驚嘆しました。また、イーデンパークでのテストマッチでは、国歌斉唱の際に観客全員が起立し、スタジアムが揺れるのではと思うほどの声量で国歌を歌い上げる姿に胸を打たれました。

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 現地では、仕事帰りにクラブハウスへ立ち寄り、数人が揃えば自然にランパスを始め、自主トレをして汗を流し、その後クラブハウスで軽くビールを飲んで帰宅する——そんな日常の中にラグビーが溶け込んでいることにも深い感銘を受けました。「ラグビーが生活そのもの」という言葉の意味を肌で感じた遠征となりました。また、ラグビーを長年支えてくれた奥様への“罪滅ぼし”として、この遠征に夫婦や家族で参加したメンバーがいたことも、心温まるエピソードとして記憶に残っています。

 

タイ遠征

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第2期ジャージを着た惑葉の精鋭たち

 平成22年(2010年)には、タイへの遠征を実施。現地では、タイ駐在の欧州圏出身者によるチーム「オールド・バンコク・バンガーズ・ラグビー・フットボール・クラブ(Old Bangkok Bangers RFC)」と日本人チーム「バンコク・ジャパニーズ・ラグビー・フットボール・クラブ(Bangkok Japanese RFC)」との交流試合を楽しみました。  

 試合は大学のグラウンドで行われましたが、あらかじめ救急車が待機していたり、相手チームが“オールドスタイル”のユニフォーム(まるでモモヒキのよう)で登場したりと、驚きと笑いに包まれた一幕も。今回もまた、奥様への“罪滅ぼし”として、この遠征に夫婦で参加したメンバーが4組いました。

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 試合はシーソーゲームで救急車のお世話にもならず楽しいゲームでした。アフターマッチファンクションは盛り上がり、ビール早飲み競争(5人でリレー)では、佐賀の愛敬町の夜のグラウンドで日ごろ鍛えていた、惑葉の誇る強力プレーヤーたちでも肝臓力の差で負けました。翌日は観光組とゴルフ組に分かれ、観光は戦場にかける橋で有名なクウェー川(the River Kwai)鉄橋、ワットポー(巨大な涅槃像)などを巡り、試合と親睦とにそれぞれ満喫したタイ遠征でした。      

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 国内では、たとえ見知らぬ他県へ転勤しても、どこかに必ず惑ラグビークラブがあり、そこに参加して一緒に楕円のボールを追いかければ、まるで10年来の旧友のように温かく迎え入れてもらえます。外国でも同様に、ラガーマンはラグビーで培った「試合が終わればノーサイド、みんな仲間だ、さあ飲もう!」という精神で、新参者を快く受け入れてくれます。ラグビーというスポーツによって、どこへ行ってもその土地になじんでいけるのだと、深く感銘を受けました。

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監督制の導入と練習態勢の確立

 平成19年度(2007年)の総会では、新たに監督制の導入が決定され、力久監督が初代監督として就任しました。この背景には、当時の練習参加者の減少があり、かつての「活気あるラグビー」や「楽しむラグビー」の雰囲気が次第に薄れてきていたことが挙げられます。そのような停滞した状況を打破しようという思いから、クラブとしての新たな取り組みとして監督制が導入されたのです。

 こうした状況をもたらしたのは、創立以来、惑葉の礎を築き、若手をけん引してこられた先輩方の引退により、世代交代の時期を迎えていたことも一因として考えられます。新旧が交代する過渡期において、チームの方向性を再確認し、再び活気ある活動を目指すための第一歩として、監督制が大きな役割を果たすことになりました。

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お世話になっている低床公園の草刈り作業

 力久監督は「惑葉ラグビーを通じて、楽しかったと思えるクラブの再生」が急務であると考え、以下の施策を打ち出しました。


① 運営と競技の役割分担
 チームの活性化には明確な役割分担が不可欠と考え、運営面は監督が、競技面はヘッドコーチが担当する体制を構築。会長・副会長との連携や他チームとの試合調整などは監督が担い、練習・試合に関する具体的な運営はヘッドコーチが責任を持つこととしました。

② 役員会の定例化と幹事の増員
 従来は総会前のみの開催だった役員会を、年間を通じて開催する体制に変更。8月には前期の反省と後期の方針策定、3月には後期の反省と次年度方針の策定を目的に開催。また必要に応じて臨時役員会も実施することとし、コミュニケーション不足の解消を図りました。
 加えて、幹事の増員により各年代からの意見吸収を可能とし、現在では連絡体制もLineの活用により円滑に行われています。

③ ヘッドコーチ制の導入と競技面の権限集中
 競技面の方針決定・練習プログラムの作成・試合メンバーの選定など、現場の判断はすべてヘッドコーチに集約。チーム強化に向けた短期・長期の計画を立て、より明確な責任体制を整備しました。

④ 試合数の増加と目的意識の明確化
 以前は年間4~5試合と試合間隔が長く、練習に目標が持ちにくい状況でした。そこで試合数を増やし、具体的な試合を目標とした走り込みやスキル習得を促進。各地のラグビー祭などにも積極的に参加し、一時は年間10試合ほどに増加しました。現在は、選手のコンディション管理を考慮し「試合間隔は、3週間の間隔を空ける」原則のもと、年間7試合を実施しています。


 これらの取り組みにより、クラブは次第に活気を取り戻し、現在では部員数約70名、日曜日の練習には20~30名が安定して参加するようになりました。監督は力久監督から2代目の江口監督を経て、現在の水田監督に引き継がれています。

 現在の強化方針では、従来のような試合ごとの戦術の構築ではなく、個々の基礎力の底上げと判断力の向上を重視。メンバー自身が練習を通じて成長を実感しながら、楽しくラグビーに取り組める環境づくりが進められています。

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明日へ向かって

 惑葉創立50周年を迎えるにあたり,先輩達が残した記録をもとに、これまでの歩みを「佐賀惑葉ラグビー倶楽部50年史」として整理しました。
 惑葉創立時から長年にわたり、迷惑との試合では戦術・走力・技術・気合ともに劣り、大差での悔しい思いをしてきました。迷惑に勝ちたいとの一心で練習に励んだものです。しかし今では部員も増え精神力・技術力も向上して、迷惑と互角に戦うこともできるようになり、勝利の喜びを得ることもできるようになりました。

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 惑ラグビーは勝負にこだわらず、また他人から強いられてやるものではありません。自分の健康のために、また楽しみのために自主的にラグビーをしているのです。練習や試合で調子が悪いと感じたときは身体のどこかに異変が生じてきています、練習や試合が人間ドックのようなものです。これからは70歳まで現役で働かざるをえなくなり、そのための体力を維持するためにも日曜のチーム練習と自主トレが必要です。それに定年退職後は人との交流が激減します。家族との会話だけではなく若い仲間と一緒にプレーでき、語り合うことができることが惑ラグビーの最大の魅力です。

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 毎週日曜日、八戸溝低床公園には白パンから紫パンまで多くの仲間たちが集い、切磋琢磨しながら練習に励んでいます。50周年を迎えた私たち「佐賀惑葉ラグビー倶楽部」の活動は、これからも変わらず続いていきますが、これまで倶楽部の礎を築き、汗を流してこられた先輩方に思いを馳せながら、今後も一人一人が力を尽くし、より良い倶楽部づくりに努めていきたいと思います。

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 微力ながらも、佐賀県ラグビーの発展に貢献していくことも、私たち惑葉の大切な役目のひとつです。近年では高校のラグビー部が減少し、それに伴ってクラブチームの数も少なくなってきました。私たちの惑ラグビーでも、白パンの若いメンバーが減少傾向にあります。ラグビー経験者や、ラグビーに興味を持っている人達に積極的に声をかけ、ぜひ一度、惑葉の練習を見学してもらいましょう。そして、一人でも多くの新しい仲間と出会い、共にプレーできる環境を広げていきましょう。

 最後に、これまで私たちを温かくご指導くださった先輩方に、心より感謝申し上げます。また、長きにわたり練習の場を提供してくださっている佐賀市の皆様にも、深く御礼申し上げます。

 私たちの歩みを支えてくださった先輩方の中には、すでに天寿をまっとうされた方もおられます。そのひとりひとりに、あらためて深い感謝と敬意を捧げます。
 そして、病や事故で惜しくも仲間を離れ、先に旅立った友へ――病と闘いながらも、退院のたびに低床公園の練習に顔を出し、再びみんなとスクラムを組みたいと、痛む体を押してボールを追うあなたの姿を、私たちは決して忘れません。
 ともに汗を流した日々の想い出を胸に、旅立った先輩方と友に、私たちの歩みの記録である <佐賀惑葉ラグビー倶楽部50年史> を捧げます。

文責 池田一徹、力久敏信、光冨義仁
  

 *試合の写真は佐賀県ラグビーフットボール協会に提供していただきました。

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歴代会長

 代

 氏 名

    在 任 期 間

初代

井手 六郎

昭和50年~昭和51年(1975年~1976年)

二代

栗山 虎之助

昭和52年~平成11年(1977年~1999年)

三代

宮田 昭人

平成12年~平成16年(2000年~2004年)

四代

古賀 譲治

平成17年~平成20年(2005年~2008年)

五代

平野 乃武生

平成21年~平成26年(2009年~2014年)

六代

池田 一徹

平成27年~令和元年(2015年~2019年)

七代

力久 敏信

令和 2年~令和 5年(2020年~2023年)

八代

光冨 義仁

令和 6年~令和 7年(2024年~2025年)

九代

江口 正一郎

令和 8年~    (2026年~   )


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